心理的安全性の効果を疑うのは、危険なのか?

心理的安全性について疑問を口にするのが、怖かった。
今から思えば、なんとも皮肉な話です。
心理的安全性を学ぶ研修で、その考え方に疑問を投げかけると、講師や参加者から露骨に嫌な顔をされる。「そういう質問は歓迎されていないんだな」と感じることが何度もありました。
空気を読んで黙ったこともあります。でも、黙らなかったこともあります。
勇気を出して発言してみるものの、結果はまるでオリンピックの飛び込み競技。華麗に飛び込んだつもりが、見事な腹打ち。審査員の点数は全員ゼロ。拍手もゼロ。
もちろん、私の伝え方にも問題がありました。当時は疑問をうまく言葉にできず、必要以上に攻撃的になることもありました。
そもそも、私は少々天邪鬼なところがあります。
「みんながそんなに素晴らしいと言うなら、逆に怪しいんじゃないか?」
そんな気持ちも正直ありました。でも、それだけではありません。心理的安全性という考え方には、どうしても何かが足りない気がしていたのです。それどころか、少し危うささえ感じていました。
それから約8年。エイミー・エドモンドソンの著書を読み、キャロル・サンフォードによる批判も読み、友人や同僚、クライアント、研修の参加者たちと何度も議論を重ねました。
その間、私自身も変わりました。結婚し、少しは人間として成長し、文章を書く練習を通して考える力も磨いてきました。そして、怖くても疑問を口にすることはやめませんでした。失敗を繰り返しながら、以前よりも自分の考えを明確に、相手への敬意を持って、無駄に対立せずに伝えられるようになっていきました。
心理的安全性の基本的な考え方は、よく分かります。安心して発言できるなら、意見を言いやすくなる。それは当然でしょう。
でも、安心できなかったら、どうするのでしょうか?
誰かが私の不安を取り除き、安心して話せる状態にしてくれるまで、待っていればいいのでしょうか。
長年引っかかっていたことが、ようやく分かってきました。
日本で私が見てきた心理的安全性の研修では、「周囲の人が安心して発言できる環境をつくる」という話が中心でした。つまり、他者から与えられる安全性です。
ところが、もう一つの大切な側面が、ほとんど語られていませんでした。
それは、自分の内側で育てる安全性です。
周囲が自分を安心させてくれなくても、「不快な状況や失敗に直面しても、自分は何とかできる」と思える力のことです。
私は、周囲から与えられる安心ばかりを重視すると、思わぬ弊害が生まれると考えています。他人に安心させてもらうことへの依存が強まったり、自分で困難を乗り越える力を育てる機会を失ったりする可能性があるからです。
外から与えられる安全性と、自分の内側で育てる安全性。その両方を大切にしたほうが、はるかに効果的だと思うのです。
恐怖は、重力に少し似ています。
確かに私たちを引っ張ります。でも、引っ張られるからといって、身動きが取れなくなるわけではありません。誰かがクレーンで持ち上げてくれるのを、じっと待つ必要もないのです。
自分の力で動けるようになることもできます。
では、どうすればいいのでしょうか。
理屈は簡単。でも、実際にやるのは難しい。
怖くても、話してみる。盛大に失敗する。立ち直る。何がまずかったのか考える。そして、また挑戦する。
それを繰り返すうちに、怖くても必要なときには発言できる、という自信が少しずつ育っていきます。
自分の内側にある安全性も、育てることができるのです。
今では、あの頃、心理的安全性について疑問を口にするのが怖かったことに、むしろ感謝しています。
あの経験が、今の私をつくってくれました。そして私は、今の自分のほうが好きです。




コメント