日本の「心理的安全性」に欠けている、もう半分

日本で心理的安全性について話すとき、最も大きな誤解の一つは、「心理的安全性は一種類しかない」ということです。
実際には、二つあります。
こう言うと、たいてい「えっ、二種類?」という顔をされます。
恐怖は、目に見えない霧のように会議室を漂っているものではありません。恐怖を感じるのは、人です。同じ会議に参加し、同じ上司の話を聞いていても、あなたと私が感じている恐怖はまったく違うかもしれません。
では、あなたの恐怖は誰が扱うのでしょうか。私の恐怖は、誰が扱うのでしょうか。
誰かが私の恐怖を取り除いてくれる。それが「外から与えられる心理的安全性(Externally Given Psychological Safety)」です。自分で自分の恐怖と向き合い、扱う。それが「自分の中でつくる心理的安全性(Internally Generated Psychological Safety)」です。
同じ「心理的安全性」でも、恐怖を誰が扱うのかという点では、まったく違います。
もちろん、どちらにも大切な役割があります。しかし、私がクライアント企業を見ていると、ほとんどのチップを「外から与えられる心理的安全性」のほうに賭けています。上司が安心させる。周囲が否定しない。組織が安全な環境をつくる。そうすれば、自分で恐怖を扱う力も、そのうち勝手についてくるだろう……浸透圧か何かで。
これは危険な前提です。
もし、いつも誰かが私の恐怖を取り除いてくれるとしたら、その人がいなくなったとき、私はどうするのでしょうか。まだよく知らない人、信頼できるかどうかわからない人と仕事をするときは? 威圧的な人が、私を黙らせようとしてきたら?
そして、ここには少し不都合な現実があります。
職場を本当に危険な場所にする人ほど、心理的安全性なんて真剣に考えていません。
私はそういう人たちに会ってきました。たぶん、皆さんにも心当たりがあると思います。
「法律上そうすべきだから」「人としてそうあるべきだから」という理由で、その人がいつか私を安心させてくれるのを、私は待ちたくありません。うまく言い逃れするかもしれない。こちらがおかしいと言い張るかもしれない。私の仕事や人間関係を壊そうとしてくるかもしれない。
そんなとき、私はクライアントを見ながら考えます。
「この人たちが現実を生き抜くために、何が必要なんだろう?」
外から与えられる心理的安全性は大切です。でも、自分の恐怖を扱うことをいつも周りの人に任せ、自分で自分を安全にする力を育てなければ、一人では動けない場所が増えていきます。
自分が発言できるか。反対できるか。間違えられるか。嫌われても動けるか。
それが全部、相手がどう振る舞うか次第になってしまいます。
法律と、道徳と、現実は、いつもきれいに重なるわけではありません。




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