top of page

良いファシリテーションに潜むトレードオフ

執筆者の写真: jameschappell2
jameschappell2
8月17日
読了時間: 4分

会議中、ふと沈黙が訪れる。ファシリテーターは数秒待つ。少しずつプレッシャーを感じ始め、そこで声をかける。「太郎さんはどう思いますか?」太郎さんが答える。それに続いて別の人も話し始め、議論がまた動き出す。


ファシリテーターは思う。よし、うまくいった。


実際、うまくいったのかもしれない。ただ、もう一つ考えてみたいことがある。この場を動かしたのは、いったい誰だったのだろう?


私はこれまで、自分が進行していた会議も含めて、このような場面を何度も見てきた。質問をしても、誰も答えない。沈黙がだんだん気まずくなり、誰かが助け舟を出す。ファシリテーターが誰かを指名する。よく話す人が口火を切る。順番に一人ずつ話すことになる。あるいはリーダーが質問をもう一度説明する。すると会話が動き出し、みんな少しホッとする。


以前、ある参加者が「会議で黙っていることはニュートラルだと思っていました」と話してくれたことがある。でも、自分が黙っているときに何が起きているのかをよく見るようになって、その考えが変わったという。自分が黙っていると、誰か別の人が「この場を動かさなければ」と感じ始めることがあった。


誰かが助ければ助けるほど、他の人は待ちやすくなる。そして、他の人が待てば待つほど、誰かが「自分が何とかしなければ」と感じるようになる。誰もそんなつもりはないのに、いつの間にか「待つ人」と「助ける人」という固定したパターンができてしまうことがある。


ここで、ファシリテーターには見えない、とても重要な瞬間がある。たとえば、太郎さんが発言することに怖さを感じながらも、あと少しで「それでも言ってみよう」としている瞬間だ。そこで私が声をかけ、太郎さんがその壁を越えるのを手伝ったとしても、それ自体は役に立つかもしれない。


でも、自分の力でその壁を越えたときの方が、成長への影響はおそらく大きい。怖かった。でも、自分でやった。 良かれと思って差し出した助けが、自信や主体性を育てるために必要だった経験そのものを奪ってしまうことがある。長い目で見れば、その助けがマイナスに働く可能性もある。


スポーツのコーチを考えると分かりやすい。試合中、コーチがフィールドに走り込み、他の選手を止め、ボールを太郎さんの前に置いて「今、蹴って!」とはできない。でも、試合の前後やタイムアウトなら、コーチにできることはたくさんある。


リーダーも同じような助け方ができる。会議の前に、「発言するのが難しいと感じることもあると思う。でも、こちらから指名はしないので、自分でタイミングを選んでみてほしい」と太郎さんに伝えることができる。そして会議の後で、実際に何が起きたのかを一緒に振り返ることもできる。なぜ私があえて手を出さないのか、その理由を本人が理解し、同時に「ちゃんと気にかけてもらっている」と感じていれば、手を出さないことも「放っておかれた」とは受け取られにくくなる。


だからといって、沈黙が良くて、介入が悪いという話ではない。助けが必要なときもある。会議をとにかく前に進めなければならないときもある。ここにあるのは、もっと厄介な緊張関係だ。私が人のために場を動かすことに上手くなればなるほど、私自身も含め、みんなが「この人が場を動かしてくれる」と頼るようになってしまう可能性がある。


だから最近は、自分のファシリテーションがうまくいっているかを見るとき、以前とは少し違うところを見るようになった。私を待たずに、自分たちで話し始めているだろうか。普段あまり話さない人が、指名されるのを待たず、自分で入るタイミングを決めているだろうか。沈黙をすぐ埋めてしまう人が、少しそのままにしておけるようになっているだろうか。行き詰まったとき、グループが自分たちで次の一歩を見つけられるだろうか。場を動かす責任は、グループ全体で以前より共有されるようになっているのか。それとも、まだ一部の人に集中しているのか。


こうした瞬間からは、ただスムーズに進んだ会議だけを見ていても分からないことが見えてくる。


今のところ、私自身が大事にしている目安はシンプルだ。気づくのは早く。でも、助けるのは少しゆっくり。 まず、その人たち自身に何ができるのかを見る時間をつくる。その上で、本当に手を出す必要があるのか、出すならどんな形がいいのかを考える。

 
 
 

コメント


bottom of page